備前市 閑谷学校②

光政が開いた庶民の為の学校。日本で最古の学校である。講堂は国宝。光政は死ぬ間際まで、この学校の永続を願った。その執念にも似た気迫や熱い想いは、この学校の経営方法や建築に随所に垣間見ることができる。

学校は削減、没収、転封等による藩主交代等によりその存続が危ぶまれるのを想定し、近辺の土地を百姓から買い上げ、地主を学校とし、村の名前も閑谷村とした。これにより藩主が代わっても安定した財源を維持することができる。また、屋根も三重構造の堅固な造り、塀も岩盤近い所まで土を掘り下げ強固な塀を築いた。そして講堂の備前焼きの瓦には、池田家の家紋を敢えて入れなかった。

 

閑谷学校の門構え。儒教の影響を色濃く表し、中国風である。

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光政が思い描いた永久不滅の閑谷学校。ここで庶民は身分の別なく読み書きの手習いを学んだ。

 

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江戸幕末期における日本人の識字率は70-80%。この数字は当時の列強国と比較できない程の数字である。ほぼ同時代のイギリスの大工業都市での識字率が20~25%。フランスにおいては、10~16歳の識字率はわずか1.4%にすぎなかったことを考えると、日本の識字率は驚異とも言えるだろう。

 

これも早くから庶民教育の必要性を考え、寺子屋等が普及したことが要因であると考えられる。そして、その中でも日本最古の庶民教育の場としての閑谷学校を創設した光政。

今回この閑谷学校について、詳しく説明して下さった研修センターの先生も、説明を終え改めて光政の学校に対する想いを語られた後、感極まり言葉が詰まった様な感じになられた。聞き手の私も、光政の情熱に胸が熱くなり目頭が熱くなった。正に先人の想いに触れた歴史に触れた瞬間である。